<ざっくり言うと>
- 併合前からハングルは女性の手紙などで使われ続けていた。
- 併合前からハングル普及運動は起きており、19世紀末には公文書がハングルで書かれるようになっている。
- 併合前からハングル運動が始まっていた事実がある以上、「日本がハングルを広めてやった」というのはデマである。
「ハングルは日本が広めてやったんだ」デマシリーズ「ハングルは日本が広めた」というのは、嫌韓デマの最もポピュラーなものの一つです。「日本がハングルを広めてやったのに、韓国はそのことに感謝するどころか『日本にハングルが弾圧された』と嘘を言っている」という嫌韓主張ですね。百田尚樹や『マンガ嫌韓流』をはじめとして、嫌韓を叫ぶ人たちは、相当高い確率でこれを信じているのではないでしょうか。
昔、日本が朝鮮半島を併合した時、朝鮮人のほとんどが文字を読めないのに驚き、うち捨てられていたハングルを見つけ、文字を統一し、教科書を作って朝鮮半島全土に普及させた。
— 百田尚樹 (@hyakutanaoki) 2019年7月14日
100年後、なぜか日本の駅にハングルがあふれかえった…
日本が朝鮮を併合してまずやったことの一つに「教育」がある。文盲率90%の朝鮮人に文字を教えるために5200の小学校を建て、ハングルの教科書を東京で印刷した。朝鮮人に頼まれてしたことではない。だから、朝鮮人から「頼んでもないことしやがって。有難迷惑だ!」と非難されても仕方がない。
— 百田尚樹 (@hyakutanaoki) 2014年8月30日
しかし、これはデマと言う他はありません。今回はこのデマについて検証します。
ハングルは「打ち捨てられ」てなどいなかった
百田尚樹は、日本人が「うち捨てられていたハングルを見つけ」たなどと言っていますが、全くの嘘です。
確かにハングルは公文書として用いられることのない、漢文よりも低い扱いを受けている文字でしたが、の言語学者の遠藤織枝氏の書いた「女性と文字」という論文では、以下のように記述されています。
初期には、女性に儒教の規範を教えるしつけのためのものとしてハングル書は書かれた。また、王が娘に贈る手紙や、娘が王に贈る手紙、さらに、王妃が息子である幼王に代わって政治を司る時や、その他の政治に関する臣下への手紙はハングルで書かれた。王室の家族同士の手紙のやりとりも、書き手か受け手が女性の場合、多くハングルで行われ、ハングルの手紙は婦女の間で必須の存在であった。ハングルは公文書や男性同士では用いられなかったようですが、女性の間では用いられていたようで、例えば下の写真は1838年~1843年の間に純元王后が婿宛てに書いたものだそうです。ハングルのみで書かれています。(参照)
文学の面でも、両班の女性たちは、漢字よりも思いを伝えやすいハングルを用いて詩歌を創作するようになる。それが平民の女性にも伝わり、女性教育のためのものから、女性の心情、人間性の尊重などを内容とする作品が生まれ、儒教的な教訓からも解放され、ハングルが生活化する。
こちらは同時代の徳温公主の手紙。同じくハングルだけで書かれていますね。(参照)
こちらはさらにそこから100年ほどさかのぼった、李氏朝鮮22代国宝の正祖が母方の伯母に宛てた手紙だそうです。宛名と名前以外ハングルで書かれていますね。(参照)
こちらはさらに100年前、17代国王考宗が三女・淑明公主に送った手紙です。やっぱりハングルですね。
このように、ハングルは知識層からは蔑まれたものの、女性の手紙、もしくは女性宛ての手紙では、李朝時代ずっと使われていたことがわかります。
これだけでも、日韓併合時に日本が「うち捨てられていたハングルを見つけ」たなんて百田の主張がデマであることがはっきりとわかりますね。百田先生、どの辺がうち捨てられているんですか?
併合前からハングル運動が始まってた
公文書などに用いられることのなかったハングルですが、19世紀末の「開化期」からハングルを用いる運動が盛んになります。
1886年の発行の『漢城周報』では、漢字ハングル交じり文が用いられます。これは政府の機関である博文局が発行したものですので、朝鮮政府もこのことからハングルを用い始めたことがわかります。これには日本の井上角五郎も協力していましたが、「日本人が作った」わけじゃないですね。
1896年には『独立新聞』が刊行されます。『漢城周報』と異なり、『独立新聞』はハングル専用新聞でした。ハングルの分かち書きを始めて行った新聞でもあります。
また、1894年11月21日公布の「勅令1号公文式」では、公文書にハングルを使用することが定められました(参照(62ページ))。日本と結んだ第二次日韓協約も漢字ハングル交じり文で書かれています。
(↑第二次日韓協約。漢字ハングル交じりで書かれている)
民間でも、1906年に李人稙が「新小説」と呼ばれる運動を起こし、漢字ハングル交じり文やハングル専用での小説を書いています。
(↑1906年の『血の涙』。上は漢字ハングル交じり版。下はハングル専用版。(参照))
確かに井上角五郎のようにハングル普及に協力した日本人はいましたが、韓国人の自主的な努力により、1910年の併合前から、新聞、公文書、小説等でハングルは使われるようになっていました。「うち捨てられていたハングルを、併合時に日本が見つけてやった」という主張は、嘘と言うしかありません。
それでは、次回は併合前後から併合後のハングルの扱い、特に学校教育におけるハングルの扱いを見ていきたいと思います。
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